物理と数学のポイント

筑波大学農林工学系 奈佐原(西田)顕郎

物理と数学を勉強する上で、ところどころに壁というか、難しい概念に出会って難儀することがある。基本的にはその壁は自力で突破すべきだが、ヒントになるような考え方をまとめておく。


高校数学をやりなおしたい人へ

1。 なるべく低い段階から始めること。高校の数IIIや数Cがわからないなら、まず数I・数Aの段階から始めること。そのあたりがあやふやな人は中学校の数学から始めること。基礎をしっかり固めないと、数学はすぐに行きづまるので、退屈でも低い段階から積み直すことが大切です。

2。 毎日勉強すること。数学は休んだらダメです。どうしても時間がないときは、10分でもいいから数学を毎日続けること。

3。 大学入試レベルの演習問題は無視。基本と中級レベルの演習問題だけを、たくさんこなすこと。大学入試の数学は、かなりいやらしい問題が出ます。数学者でも解けないことがあります。これは高校での数学の範囲が、大学で要求される数学から見ればずいぶん狭いせいであり、狭い範囲で差をつけるには、とっぴでいやらしい問題にならざるを得ないのです。したがって、大学入試レベルの問題を解く暇があったら、さっさと先の分野に進んで下さい。

4。 わからないことは、「どこまでわかって、どこから先がわからないのか」を突き詰めて考えて下さい。「わからない」というのは、決して、「なんだかよくわからない」という漠然とした状態ではなく、自分の理解と数学の論理が合致しない状態であり、そのポイントは自力で明確に特定できるはずです。それができない場合は、「わからない」ポイントが、もっと前にあったはずですから、わかるところまで立ち戻って、再度、自分の数学を積み上げ直す必要があります。


「無限に小さい」ということ

「無限に広がる大宇宙」(「宇宙戦艦ヤマト」より)というフレーズのように、「無限」といえば大きいものというイメージが一般的なので、「無限に小さい」という表現(または「無限小」という表現)が数学、特に微分積分(解析学)に現われてとまどった人は多いだろう。僕もそうだった。これは、「限りなくゼロに近いけどゼロじゃない量」というふうに言われる、微分の最も基本的な概念である。

しかし、「限りなくゼロに近いけどゼロじゃない」などということはありえるだろうか? 答えは、「ありえない」である。背理法で証明しよう。まず、ある数xが「限りなくゼロに近いけどゼロじゃない」数だとする。「限りなくゼロに近い」ということは、任意の正の実数Mに対して、ゼロとxとの距離、つまり|x|が、Mより小さいということである。つまり、|x|<M。Mは任意の正の実数だから|x|そのものでも良いはずなので、M=|x|とすると、|x|<|x|となる。これは矛盾。というわけで、「限りなくゼロに近いけどゼロじゃない」数などは存在しない。

じゃあ、「限りなくゼロに近いけどゼロじゃない量」というのは何なんだ、ということになるが、これはたとえばこういうことである: たとえばxが、何か他の量tと関連しているとしよう。グラフをかくとtに対してxは何やら複雑なカーブになるとしても、カーブがなめらかにつながっていれば、ある点(t0, x0)の近くでは直線でうまく近似できるだろう。つまり、その範囲内で、t=t0+Δtに対してxがx=x0+Δxとなったとき、Δx=αΔt+εのようにかくと(αは直線の傾き)、直線と曲線の差εがΔxとかαΔtとかに較べてずっと小さくなる。そうした状況を表すのに、dx=αdtと書き、このdxとかdtが「無限小」である。(このあたりの状況は、高木貞治「解析概論」第2章15に詳しい。)

つまり、ある量について「無限に小さい」ということは、その量だけで成立するのではなく、何か他の量との関係にもとづいてはじめて成立する概念である。なぜそんなめんどうなことを考えるかというと、上の例でいくと、xとtが複雑な関係であったとしても、「無限小」ではdxとdtがシンプルな比例関係になる。このように、複雑な状況も小さく見ればシンプルになるということが、「無限小」という概念を持ちだすことの旨味である。

なら、「限りなくゼロに近いけどゼロじゃない量」などというまぎらわしい表現は何なのかというと、これは学習者の態度に対する指針である。つまり、「この量は、小さい範囲ならその誤差はもっと小さいから無視していい。だけどゼロとおいちゃうと身もふたもないから気をつけなさい」という気持ちを学習者に警告しているのである。

「無限」の反対は「有限」である。「有限」と考えると、それはどんなに小さくても、ある具体的な、ゼロよりも大きな数、たとえば0.1とか0.0001とか0.00000001とかを考えることになり、その場合は「有限な」誤差がついてまわる。コンピュータで計算するときなどは、どんなに精度を高めても結局は有限な数しかあつかうことができないので、無限小を基礎として築かれた数学(特に微分積分学)をそのまま適用することはできない。だから、数値計算の歴史は、有限な誤差との戦いの歴史でもある。


反変と共変

テンソルは座標変換に対して特定のルールに従う変数の組み合せである、という理解が、特に初等物理系の教科書では一般的だが、そもそもテンソルとは何か?テンソルは、テンソルをテンソルに移す線形写像である。この定義は再帰的だから、どこかに出発点となるテンソルが必要で、それがスカラーとベクトルである。

ベクトルとは、基底と成分で定義されるのがこれまた一般的だが、数学的には、ある体に対して交換法則と結合法則のなりたつ乗算が定義され、自らの中でも交換法則と結合法則が定義される集合(それがベクトル空間)の元である。そういう集合に基底が導入できるかどうかは、実はそれほど自明ではない(確か、選択公理が関与していたのではないか)。でも基底が導入できれば、そのそれぞれの基底に対して、クロネッカーデルタ的にスカラーを割り振る操作は線形写像になるので、定義からそれはテンソルとなる。そのテンソルの組み合せのことを、双対基底という。ここから共変基底と反変基底という考え方が発生する。

基底で表せるベクトルと、双対基底で表せるベクトルは、互いに対してスカラーを割り当てる線型写像なので、2つをお互いに作用させた結果は当前スカラーである。これが、計量を導入する前の内積のプリミティブなイメージであり、このときの2つのベクトルの片方を反変ベクトル、片方を共変ベクトルという。共変ベクトルの成分は、反変ベクトルの基底と同じような座標変換をうける。反変ベクトルの成分は、共変ベクトルの基底(双対基底)と同じような変換を受ける。反変ベクトルの座標変換と共変ベクトルの座標変換は、お互いを作用させ合ったときに互いにキャンセルしてしまう。でなければスカラーは出て来ない。行列表記すると反変ベクトルを列ベクトル、共変ベクトルを行ベクトルに書いたりして、両者は転置の関係にある。従って、両者の座標変換の行列は、転置したものが互いの逆行列になっていなければならない。

ところで、自分自身を転置したものが自分自身の逆行列になるような行列が世の中にはあって、それを直交行列と言う。直交行列による線形変換は直交変換であり、正規直交基底を正規直交基底に移す。ということは、正規直交基底だけで座標変換を考えるならば、反変ベクトルと共変ベクトルは、座標変換に対して全く同一にふるまうのであり、実質的に両者の間の区別は不要になる。これが、我々が高校までの数学で習う、素朴なベクトル空間のイメージである。

我々の素朴な座標系のイメージは、デカルトの3次元正規直交座標系なので、我々の想像力では、この反変ベクトル/共変ベクトルの区別をすることのイメージとか意味がとてもつかみづらくなっている。しかし、このあたりの区別が、テンソルと行列の本質的な違いの一部である。テンソルは行列を多次元に拡張したものと言われるが、それはチープなイメージである。