ビルマのカンタベリー物語

--- あなたはナメられていないか?

2004年12月9日 筑波大学農林工学系 西田顕郎

 会田雄次著「アーロン収容所」という本があります。歴史学者が若い頃、第二次大戦中にビルマ戦線で戦い、終戦とともに英軍捕虜になり、収容所で暮らした記録です。ちなみに、当時、ビルマ(ミャンマー)はイギリスの植民地でした。さて、その中で、あるビルマ人(ミャンマー人)のインテリが出てくるのですが、その人はビルマのトップの大学であるラングーン大学英文科を卒業し、卒論では、英国人教師に師事して、英文学の古典「カンタベリー物語」の研究をした、と著者に言います。著者は驚き、「カンタベリー物語を読むことすら自分には歯が立たないが、ぜひその本を見せてくれ」と彼に頼みます。そして彼が著者に持ってきて見せた本は、子供向けに編集された、絵入りの「カンタベリー物語」でした。

 私にとっては、この逸話はとても残酷な悲劇のように思えるのです。帝国の植民地主義が現地の人々をいかに愚民的に扱うか、その象徴のように思えます。おそらく、このビルマのインテリは、この本が正真正銘の「カンタベリー物語」であると信じて疑わず、また、それを研究して学問を修めたことで自信と達成感を得て大学を卒業したのでしょう。自分は古典英文学の研究者だ、と。

 しかし、このようなことが現代の日本でも起きている可能性があります。


 本来、学問というのは、厳しくて妥協の余地が無いものです。ある学問を修めるには、それに必要な基礎学力を、地道に積み上げるしかありません。しかし、それができていない人が、短期間のうちに、どうしてもその学問を修めたい、といったとき、教師がとり得る対応は3つです: 無理だとわからせるか、無理矢理詰め込むか、適当に教えて「修めたつもり」にさせるか、です。この最後のやつを、象徴的に「ビルマのカンタベリー物語」と呼びましょう(「アーロン収容所」で会田氏が出会ったのは、むしろ植民地主義の犠牲者としての「カンタベリー物語」でしたが)。

 釈迦のことばに、「人を見て法を説け」というものがあります。情報や教育は、相手の知的レベルに合ったものを与えなければ意味がない、という考え方です。世間では基本的にこのようなコンセプトでものごとが進行します。特に、相手の知的レベルに応じた情報を発信することは、消費社会では商売の基本であり、マスコミや広告代理店など、それ専門の産業が活躍します。短期留学や体験型のツアー旅行などにもそういうのがあるでしょう。

 しかし、この考え方を教育に導入することは、危険と背中合わせです。「どうせこの人達にはこんなこと教えても無駄だ」という気分が教師を襲ったとき、「ビルマのカンタベリー物語」が起きるのです。学生が十分に大人であり、納得ずくで、「ビルマのカンタベリー物語でいいから教えてくれ」と思うのならいいかもしれませんが、これから学問を修め、知的に成長して社会に出て行こうとする学生さんに対してこういうことが発生するのは、学生さん本人にとっても、社会にとっても、不幸なことです。

 ところが、そのような危険性は、近年、とみに高まっているように思います。まず、大学のカリキュラム編成が、個々人のニーズに柔軟に対応することを目指して、個人の選択の自由を尊重する結果、基礎的で地道な内容を必修として教えることが少なくなったことが挙げられます(たとえば、生物資源学類では、最近、統計学が必修から外されました)。個々人が、学びたいことを自由意志で学ぶというのは学問の本来の姿なので、それ自身は好ましいことなのですが、それには副作用もあるように思います。というのも、授業をする側としては、高学年の専門の授業でも、学生さんに統計学や物理、数学、計算機などの基礎を期待できないので、そこから復習することになります。トータルの授業時間の半分とまでは言いませんが、数割は、そのような基礎の復習に費します。無論、地道に基礎をしっかり築いている学生さんもいますが、それは少数派であり、授業のレベルは、私の経験上では、どうしても全体の平均から少し下に合わさないとうまくいかないのです。その意味では、まじめに基礎を勉強してきた学生さんも可哀想です。

 実は、教師の側からすると、毎回、おなじような基礎的内容を授業で教えるのは、虚しさもありますが、楽なことでもあります。基礎は、わかっている者(教師)にとっては完全に体の一部になっているのであり、極端な話、かけ算の九九みたいなものですから、どんなふうにでも教えることができます。さらに、いくつもの授業で同じ事を教えればいいのだから、準備の手間が少なくてすみます。そしてこれも、「ビルマのカンタベリー物語現象」を助長する要因になります。

 一方、学生による授業評価が導入されていることも、このリスクの要因になりえます。評価項目に、「あなたはこの授業をどのくらい理解しましたか?」というものがある場合、学生の理解度が授業の指標のひとつになるわけです。すると、教師にはなるべく学生さんにわかりやすい授業をしよう、というインセンティブが働きます。その場合、教師には2つの選択肢があります: 説明の仕方を工夫して理解しやすくすることと、授業内容を理解しやすいもの(レベルの低いもの)に絞ることです。後者が選ばれた場合、それは「ビルマのカンタベリー物語現象」に直結するわけです。そしてこれは、既に初等・中等教育で発生していることであり、その大波が大学に及ぶのも時間の問題でしょう。

 では、どうしたらいいのでしょうか。わたし自身、自分がビルマのカンタベリー物語を再現しないように考えなければならないのはもちろんです。一方、学生さんには、以下のようなことを考えていただきたい:

1. 「習っていない」を口実にしないこと

 授業や課題で何かしらの前提知識が必要とされ、自分がそれを持っていないとき、「自分はそれを習っていない」として自分や教師を納得させることがよくあります。これは「ビルマのカンタベリー物語」への最短経路です。主に、高校で数学IIIや数学Cをとっていなかったとか、高校で物理や生物をとっていなかった、など、高校での選択がよく口実に挙げられます。あなたの知的成長に責任を持つのはあなた自身しかいないのだから、必要な知識は、与えられるまで待つのではなく、自ら獲得しましょう。自習が難しければ、教師に質問しに行きましょう。

2. 「どうせ必要ない」を口実にしないこと。

 難しい理論を学ぶのは大変なことですが、それを教えるのも大変なことです。教師は、どうやったら学生さんにわかってもらえるかと、悩み苦しみながら授業をし、指導をするのです。ところが肝心の学生さんが「そんなの学んだってどうせ使わないから必要ないよ」と、少しでも感じているそぶりを見せたらどうなるでしょうか? 教師は、やる気のない学生さんに対しても、最低限の「社会的責任」として「とりあえず」教えることはするでしょう。「教えるだけは教えた。あとは学生さんの責任だ」と。それがビルマのカンタベリー物語なのです。

 たとえば数学もコンピューターも、生きていく上で「必要」ではありません。コンピューターのスキルにしても、ワープロや表計算、メールやウェブブラウジングができれば十分で、プログラミングなんかできなくてもいい、ということもよくあります。学生さんが、先輩に「何をどう勉強したらいいか」と聞くとき、そのような答えを得ることがよくあります。

 ところがそれは、その先輩が、その彼・彼女自身の教育レベル(知識レベル)に合った地位にいるのだ、というだけのことなのです。プログラミングができない人に、「プログラミングをしろ」とか「できるようになれ」と言うほど世間はヒマではありません。できない人にはできない人なりの課題や仕事が与えられます。そういう人生でも何の問題もありません。実際、有限な人生の時間の中で、なにもかもを学ぶことはできないのだから。ただ、大切なのは、あなたが学ぶべきことは、あなた自身が決めなければならない、ということです。自分が必要ないと思うのなら、学ぶのをさっさとやめて、別のことをしたほうが、自分のためにも社会のためにも有意義です。

3. 知ったかぶりをしないこと

 よく勉強しているふうに見える人の中にも、ビルマのカンタベリー物語の犠牲者になりやすい人がいます。それは、知ったかぶりをする人です。モノゴトをよく理解した人は、そのことについて、知ったかぶりをする人を、すぐに見破ります。そして、知ったかぶりをする人は、なおざりな説明でも納得(するふりを)してくれるので、大変に「教えやすい」のです。反対に、教師にとって、いちばん怖いのは、わかるまで納得しないという頑固な学生さんです。そのような学生さんを前にすると、教師は必死で学問の本質を説明しようとするのです。

4. 納得できたことは、確実に理解し、覚えること

 既に習得したことを忘れるのは人間の悲しい性質ですが、それに甘えてはいけません。「これ、あなたには以前にも教えたはずだけど・・・」と教師が思ったら、あなたはビルマのカンタベリー物語の入口にいます。教師に「この人は、知識の積み重ねができないらしい」と思われたら、以後、あなたはまともな教育を受けることができないでしょう。反対に、たとえのみこみが悪くても「わかったことは確実に自分のものにする」という人は、ビルマのカンタベリー物語の犠牲者にはならないでしょう。

5. 試験勉強ばかりしないこと

 試験のための勉強は、試験を受かるには必要なことで、勉強の効率も良いものです。しかし、試験は、人類の知的蓄積のダイジェストにすぎません。入試や期末試験、就職試験、公務員試験、資格試験など、試験は無数にありますが、そのたびごとに、同じような試験勉強を重ねていては、真の知的成長はできません。英語ができるようになるためにTOEFLやTOEICのスコアを目標にするのは、目安としてはいいかもしれません。しかし、自分の興味ある分野で面白い英語の本をみつけて読みとおしたり、テレビやラジオで生の英語のニュースを見聞きして日本のメディアとは違う見方を得ようとしたり、ネットの掲示板で外国人と討論したり、という体験をしないで、どれだけ英語力に自信が持てるでしょうか? 教養試験の問題には古典文学や古典音楽の作者と作品を対応づけるような問題がありますが、実際にその作品に触れないで、名前ばかり覚えることに何の意味があるでしょうか? そのような学習自体が、既に「ビルマのカンタベリー物語」であることに、早く気付くべきです。

 試験勉強だけの知識は、底が浅いので、すぐに見抜かれます。そして、試験勉強は深いオリジナルな考察や探求心というものとは無縁なので、試験勉強に慣れてしまった人を「教える」のは教師にとって簡単なことです。モノゴトの要約を、ポイントを押さえて、関連性を持たせて教えれば良いだけです。そのような授業を面白い、と思っている人は、既にビルマのカンタベリー物語の犠牲者かもしれません。

6. 「ぜんぜんわかりません」とは言わないこと

 難しい授業や難しい本に直面して途方に暮れた学生さんにとって、「ぜんぜんわかりません」「全くわかりません」という言葉は、素直な心の叫びでしょう。しかしこの言葉を発することは危険です。なぜなら、この言葉ほど、あなたを愚昧にみせる発言は無いからです。何事に対しても、厳密な意味で、「ぜんぜんわからない」ということは、まずあり得ません。たとえば、「対称行列は直交行列で対角化される」という言葉を教師が発したとき、あなたはそれが全くわからない、と思ったとしましょう。でもあなたは、最低限、これは日本語だということはわかるはずです。あるいは、対称行列という4文字熟語をきちんと読むこともできるはずです。これは数学の授業で語られますから、なにかしら数学に関係する話であって、料理とかサッカーとか恋愛とかに関係する話ではない、ということもわかるはずです。そう考えると、あなたはこの「対称行列は直交行列で対角化される」という言葉の全てが全くわからないのではなく、どこか、具体的にわからないことを指摘できるはずです。たとえば「対称行列」の意味がわからないとか、そもそも「行列」とは何かがわからない、とか。そういう「わからない」は、本質的な理解不足ではなく、言葉の定義を知っているかどうかの問題です。あるいは、「対称行列」「直交行列」「対角化」といった言葉の意味(定義)を全て知っているのにこれがわからない、という場合は、「なぜそうなるのかがわからない」とか、「それがなぜ重要なのかわからない」とか、「それが具体的にどういう場合に適用されるかわからない」とか、「そもそもそんな当り前のことをなぜ教師が言うのかわからない」などの疑問になるでしょう。

このように、どんな「わからない」も、かならず具体的に何がわからないか、というところまで、自分の中で解析できるはずです。それをしない人が、「ぜんぜんわかりません」というのです。従って、「ぜんぜんわかりません」という人は、自分の疑問に向き合おうとしていない、つまり自分で考えようとしていない、つまり甘えている、というふうに、判断されてしまうのです。甘えた人に与えられるのは、口当りのよい皮相的な説明となおざりな指導、つまり「ビルマのカンタベリー物語」です。